氷見針の歴史 | つるかめ印のビューティーコーム

氷見針の歴史

(1)はじまり

 今から700年前ほどに支那から長崎に南京針が伝えられ、この地で製造されたのが我が国の縫い針製造の始まりと言われています。

 氷見針の始まりは、その長崎針の伝来当時氷見に住み着いた針の行商人が始まりとか、4百数十年前に長崎に行ってその製法を伝習してきた等々諸説ありよくわかりませんが、少なくとも"長崎正伝針"と呼ばれ商標にも"長崎精錬"と書かれ長崎から伝えられたことを示していました。

 今から280年ほど前の元文年間(徳川吉宗の時代)に氷見町大字中町、田子某(なにがし)がその業に従事し安政5年二代作右衛門が継ぎ分業製作法を講じ、三代作右衛門に至り隆盛したという記録があります。

(2)江戸時代

 氷見には鏡磨師(かがみとぎし)といわれる職人集団が加賀藩の保護を受け農閑期に他国への出稼ぎをしていました。鏡磨師とは、白濁したり錆びたりして見えにくくなった銅鏡を研磨し、錫メッキをほどこす職人のことです。その数はだんだん増えていきましたが、ガラスの鏡(ビイドロ鏡)が青銅鏡に置き換わっていくと次第に煙草入れ、髪飾り、鏡、針、箕などの小間物の行商人へと変化し、中部、関東、奥羽へと得意先を広げていき特に縫い針は喜ばれていたそうです。


(3)その後

 富山の売薬商が各地への土産として配っていた品物に縫い針も使われていました。

(4)明治17年ごろの記録

 縫い針製造従事戸数80戸あまり(うち70戸が旧仕切町にあった)で、普通の町屋の2~3人の家内制手工業的製造に加え、10件余りの問屋が自身で工場を持ち、10~50人の職工を抱えて製造もしていました。原料の針金は浜坂(兵庫県)枚方(大阪)から仕入、販売は小間物商人や縫い針行商人が農閑期に主に中部、関東、奥羽地方へ行商。

(5)明治37年前後

 機械での生産がはじまり、動力が使われだし生産量が増加。日露戦争による輸出需要が急増する中、明治41年「光針株式会社」が設立され工場式工業としてコークスと無煙炭を燃料にガス発動機を用い、40~50人(最盛期は240人)で生産しました。
この工場の技師長兼工場長は亀谷久左衛門「油屋」という屋号にて古くからの針問屋を営んでいました。明治20年頃、舶来のメリケン針(ドイツ針、イギリス針)を見て形・光沢・品質すべての点で従来の「みすや針」より格段に優れているのを認め日本でも機械製針を取り入れなければならないと考えました。そこで氷見から製針業の中心地であった京都へ出て、明治26年日本製針株式会社を起こし、日本で初めてドイツ式機械を購入し電気動力で機械製針を始めた人でした。しかし、事業的には、当時の輸入機械の扱いの苦労や漏電による工場の全焼被害などがあり失敗してしまいました。そこで、氷見に招かれこの新しい工場での技術指導の中心となり、一カ月500万本の生産能力を有するまでに育てました。

(6)大正時代

 大正3年7月、ヨーロッパの一角で戦争が起こりました。当時、日本国内の景気は極度の経済不況で落ち込んでいましたが、ヨーロッパ諸国が戦時状態の中で輸出能力はなく、特にドイツ針がアジア市場へ来なくなり、縫い針工業が活況を呈しました。氷見へも注文が殺到し、次々と新しい工場もでき、富山県内でも石動、高岡、富山などにも工場ができロシア、中国、メキシコ、インドなどへ輸出を広げ、広島県に次ぐ国内二番目の製針地となりました。

 大正7年の記録によると、氷見市内の工場は仕切町の氷見製針、田町の日本製針東亜製針、駅前の光針製造、御座町の丸保製針、新町の日東製針、仕切町の飴製針京紺製針などが見受けられます。
 しかし、ドイツが降伏し第1次世界大戦が終結すると、粗製乱造された縫い針は信用を失い、過剰生産で値段も下落し、倒産、工場閉鎖が相次ぎ大正15年には残った工場は日本製針1社と2個人となり年産量1億5千本程度でした。

(7)昭和になって

 その後に復活した会社も含め国内の3大産地の一つとして海軍向けセール針など品質のよい縫い針を生産するも生産額は少なく、昭和17年原料統制が行なわれ、日本製針十二町製針飴製針が企業合同をして富山県製針株式会社を設立しました。

 戦前の内地需要の15%は氷見、80%は広島、5%は兵庫の浜坂で占めていましたが、広島は戦災で製針工業も全滅したため氷見へ注文が殺到し2~3年間は需要に応じきれないほどでした。昭和25年に朝鮮戦争がはじまると主にインド向けの需要が急増し勢いを取り戻したかに見えましたが短期間で特需としての生産は終了。その後、広島の生産力が回復してくるに従い、縫い針生産は広島へ集中し始め、加えて縫い針そのものの需要も生活様式の変化とともに減少の一途をたどりました。ケンシン工業(株)と名前を変えた氷見最後の縫い針製造会社も昭和50年ごろまでには自社生産を中止。その後、縫い針の生産技術を活かした織機部品の製造へ転換し今日に至っています。